広島東洋カープの快進撃、今年の大きな話題の一つだったのではないでしょうか。
黒田投手の復帰、前田健投手のメジャー移籍、神っている鈴木選手、野球はおじさんの見るものという概念を崩したカープ女子…
今年の活躍は、長い年月かかって地道な努力が見事に花開いたことと感じました。
その広島カープですが、育成に力を入れてもFA制度ができたことで成長した選手がどんどん他球団へと移籍する時代がありました。
そんな弱小チームでもしっかりと地域に目を向け、選手を育成し、大きな資金がなくてもリーグ優勝をつかみ取りました。
いちスポーツチームですが、市民活動にも通じるものを感じます。
前置きが長くなりましたが、市民活動をするには資金が必要不可欠。
その資金集めでも、市民を巻き込む寄付のチカラにスポットを当てたいと思います。
広島カープは、当初核たる親会社を持たず設立され、経営難に苦しみました。
お金がなければ球団運営はできないと考えられてきました。
ところが、その窮地を救ったのは、市民だったのです。
その概念を覆された1つの取り組みとして「たる募金」があります。
酒樽に募金を集めるものという何の変哲もないことですが、このウェーブを作ったのは数名の市民でした。
「広島愛」「カープ愛」がその行動をさせたのでしょう。
その思いが多くの人の共感を得て、社会を巻き込み、結果カープの経営は上昇。
球団消滅の危機を乗り越えました。
また、この取り組みは、今のスタジアム建設の際にも「平成のたる募金」として復活。
約1億円という大きな金額が集まりました。
実は、長岡にもそんな寄付金(基金)が存在している地域があります。
長岡市日越地区には荒川基金という住民の住民による住民のための基金があります。
この資金源となったのは、荒川さん夫妻でした。
荒川さんは、赤ん坊を背負って通学しました。
学校を卒業後小使いさん(用務員)として学校で働き、校長の地位までついたそうです。
昭和42年、荒川さんは母校(日越小学校)を訪れ、
「自分は69歳になるまで贅沢をしたことはない。質素倹約を旨とし、少しでも残ったお金はコツコツ貯えてきた。酒やたばこもやりません。妻や子にも流行りの服など着せたことはありません。私にはそうしたものよりもっと尊いものがこの世にあると思うからです。」
といわれ、当時のお金で100万円を恩人ともいうべき故郷の母校に寄付されました。
今のお金の価値に換算すると、平屋1軒が建つくらいでしょうか。
70歳に近い老夫婦にとって、自分たちの老後のことを考えれば決して手放したくない金額です。
この寄付金は、学校だけでなく地域と一緒に使っていきたいと学校から申し出があり、荒川基金がつくられました。
万が一のことがあったら、誰かを頼りにしなくても有効に使える資金源として、今でも地域の人からも募金を集めながら存続しています。
その寄付金を原資に、今まで学校の看板・ピアノなどの楽器など、地域の人が喜ぶことに使われています。
荒川さんにとって、尊いものとは…
「自分をここまで育ててくれた多くの人々、故郷や学校への感謝や思いだった。」
この思いを受け取った人が次世代に思いを伝え、それは今でも地域の人が小学校の授業で教え続けています。
その授業は、荒川さんの生き方や寄付に込められた思いを伝えているのです。
高橋 秀一