薪割りをしたことがある人はいますか?
私が関わっている集落には茅葺屋根の古民家があり、年に一回、囲炉裏やカマドで使う一年分の薪を作る作業があります。古民家の保存会の皆さんや、手伝いに集まった若者と、森で伐採してきた木をチェーンソーで大雑把に解体し、薪割り機でちょうどいいサイズに割っていきます。大の男が20人弱で、文明の利器を使いながら半日かけて、ようやく一年分の薪を揃えます。一年分と言っても、昔の人の暮らしほど薪を使うわけでもないので、「燃料が薪だけで暮らそうと思ったら、もっと作らなきゃなのか…」と、昔の暮らしの大変さと、現代の生活のありがたさを感じます。
集落のおじいちゃんによると
「軒先にちゃんと薪が積んである家は嫁いでいい家。薪が少ない家は嫁ぐと苦労する家だぞ」と言われていたそう。チェーンソーもない時代だったら、毎日コツコツと薪を作らないと使うばかりで貯まってかないので、計画性のある家なのかどうかが薪の量で分かるわけですね。
そんな話を聞いて「昔の人は毎日薪割りをしないとなんで、時間を取られて大変だなぁ~」と思う一方で、ふと感じたことがありました。
それは、薪割りは基本的に「自分のため」にしているということです。
他にも、昔の集落の仕事である、田畑や、道具づくりも、基本的に「自分のため」。もちろん売るためにやっていることもありますが、昔の暮らしの中では「自分(たち)のため」にやっていることの方がずっと多いと感じました。
今の私たちは、どうでしょう?
薪割りのように自分が使うエネルギーを自分で作らなくても、誰かが作ったエネルギーで暮らすことができます。また、食べ物も自分で育てなくても、誰かが作ったものを食べられます。生きていくために必要だった作業の時間がなくなった分、他のことをできる時間がたくさんできて、便利で良い世の中です。
では、自分でやらなくて良くなった分の「余った時間」を、私たちは何に使うようになったのでしょうか?
私は、「人のため」の仕事に使うようになったと感じます。
昔と比べ「人のため」に使える時間がすごく増えたお陰で、社会は豊かになってきたのでしょう。その一方で、「人のため」に何かするというのは、「責任」が生まれたり、「がんばりすぎ」たりしがちです。今話題のブラック企業なども「お客様のため」という錦の旗があるからこそ、まかり通ってしまう面があります。ストレス社会と言われる現代は、「人のため」の時間を過ごしすぎの社会とも受け取れるような気がしています。
昔は、自分の暮らしのために割いている時間が多かった。
けれど、現代は自分の生活のため、人のために時間を割くことが多くなった。
さて、
協働センターを利用されるような皆さんが取り組んでいる「市民活動」や「市民協働」は
実は「自分(たち)のため」という面が強いのでは?というのが、私の印象です。
皆さんにお話を伺っていると、
「自分たちで何とかしよう」「自分たちで楽しみをつくろう」という姿勢がビンビンと伝わってきます。
そして、その時の笑顔は本当に幸せそうで、だいたいの人が「強制されたわけではなく、好きでやってんだー」と嬉しそうに話してくれます。
その姿は、仕事や家庭、また遊びとも違って、「自分たちの暮らしを自分たちで作っているんだ」という印象を受けます。
人のために、やらなくてはいけないこと、やるべきことはもちろんやる。それに加えて自分のための時間もちゃんと確保している。そんな人たちなのかもしれません。
自己実現!夢を叶えよう!という話も多いですが、多くは仕事で「人のために自分には何ができる?」という話とも置き換えられます。それも良いことですが、それだけでは疲れてしまいます。人のためだけでなく、「自分のための時間」を暮らしの中にちゃんと持っているかどうか?が、その人がその人らしくイキイキと暮らしていくためのポイントなのかも知れないなぁと、黙々と薪割りをしながら感じました。
NPO法人市民協働ネットワーク長岡
唐澤頼充