【予定通りじゃなくても、それもいい】
ここ最近の「きょうどう通信」では“協力”や“コラボ”を促す仕組み・デザインの話が続いていますが、「誰かと何かを一緒にやる」ということをするときにしばしば問題となることがあります。誰かに託した物事がその後自分の思っていなかった方向に進み「こんなはずじゃなかったのに・・・」と落胆するという、情報の「受け渡し手」と「受け取り手」の双方で認識のズレが生じてしまう問題。誰かに仕事を頼み、数時間後に進捗を確認すると全く見当違いのことをやっていたり、「ジャガイモ(男爵いも)を買ってきて」と頼んだのに買い物袋に入っていたものはジャガイモ(メークイン)だったり・・・誰しも思い当たる経験がありますよね。
あまりにも不用意な認識のズレはなんとか改めればいいと思います。内容を具体的に伝えるとか、情報を紙に書いて渡すとか、いっそのこと全部自分でやっちゃうとか、改める工夫はいくらでもあります。しかしいくら対策をしてもやっぱりミスはつきもので、“人”が介在する以上完全にミスをなくすことはできませんし、ミスを限りなく減らそうにもそこにかかる手間やコストも馬鹿にはなりません。
むしろ発想を転換し、そのような認識のズレを歓迎してはどうでしょうか。私がイメージしたことと、あなたがイメージしたことのズレを楽しむというか、いい機会と捉えるというか。認識のズレのない物事は出来上がりとしてはキレイだし、イメージ通りで気持ちは満足するでしょう。しかしそこには偶然性がないように思います。「誰かと何かを一緒にやる」ことの醍醐味はみんなのアタマが組み合わされたときに不可避な認識のズレから偶然性がうまれ、最終的に当初は思ってもいなかったモノ・コトが導かれることではないでしょうか。そんな偶然性がいい感じに作用したとき、想像を超える結果となり「みんなでやってよかったなあ」と私は感じます。
ただ、認識のズレを歓迎すると言ってもむやみやたらに歓迎してしまうと、責任が霧散し誰もが望んでいなかった結果となることもあります。そのため方向舵が大きく乱れないよう、物事の根本となるベース部分はこれでもかと認識を擦りあわせたうえで、認識のズレを許容できる範囲を見極めるなど、大切なコツがあるように思います(私もまだまだ修行中)。当初の予定とずれてしまってもいい部分と、簡単にはずらしてはいけない部分を意識し、「予定通りかつ想像以上」を目指して協働していきたいものです。
NPO法人市民協働ネットワーク長岡
池戸煕邦