「日本全国から人が押し寄せる花火があること」、「冬になると空が鈍色なこと」、「日本一の川が流れていること」、「休日のリバセンでは友達に必ず会うこと」などなど。
これらはどれも長岡で暮らしていると当たり前のことすぎて、いまいちピンとこないかもしれませんが、よそ者視点でみるとどれも長岡ならではの特別なことです。
だって長岡花火に匹敵する感動をもたらす花火大会はほかにひとつもないですし、長岡と同程度の地方都市でも大型ショッピングセンター以外に一日中わくわくできるスポットがあるまちもあります。
なにが言いたいかというと、ずっとその場にいると与えられているものがだんだんと「ふつう」になっていって、ふつうを破るものをイメージする想像力すら失われてしまう事態ってよくありますよねということです。
先日、とある全国規模の研修会に参加してきました。それは、ながおか市民協働センターのようなNPOや市民団体の支援を行うセンター職員が日本各地から集まり、スキルの底上げを図るとともに、他のセンターとの情報交換を行うというものです。
そこで私が大きな衝撃を受けたのは、ひとくちに「支援センター」といってもその内情・実情・バリエーションに同じものはひとつも無く、どれもが唯一無二と言っていいほどに多岐にわたっていたということです。
違いが端緒なものとして、「センター職員の働く上での心構え」が挙げられます。立ち上げ時に行政が主導した「公設」のセンターと、住民が自らの手で作り上げた「民設」のセンターとでは職員の心理的な部分に大きな違いを感じ、私自身おおきな刺激を受けました。
大切なのは、どちらがより良いとかではなく、自分とは異なる他者を知ることで自分の中の「ふつう」は必ずしも他者の「ふつう」と同じではないと認識することではないでしょうか。
他者と協働をすすめることの利点として、それもあると思います。
ひとりだけで物事に取り組んでいては次第に視野が狭くなってしまい、自分の目の前のこと以外の可能性を考えることが難しくなります。しかしそこで自分とは異なる「ふつう」をもつ人などと接することで、改めて自分自身を相対化し、客観視できるようになり、自分の中で固定化していたものにちょっとした隙間が生まれるかもしれません。
そして、もしかするとその隙間から新しい可能性が広がるかもしれない。そんなふうに、他者との協働とは自身が想像できる可能性の幅を広げるチャンスでもあるのではないでしょうか。
池戸熙邦