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更新日:2020.01.27

雪国越後の大衆芸能。瞽女(ごぜ)唄を多くの人に知ってほしい!|須藤鈴子さん【インタビュー】

市民活動に取り組む団体は、状況を整理して舵取りをする人、実行部隊として目的を着実に遂行するのが得意な人、ピンチの時にはスポット的に手を貸してくれる存在も現れたりと、色々な人が関わって成り立っています。それぞれの人たちが、自分の生活の中で活動に充てられる時間や能力を提供し、様々な形で関わっています。では、実際にどんな人がどのように活動に関わっているのでしょうか。活動を支えている「あの人」を訪ね、活動の実際のところをアレコレ伺ってきました。

 

今回ご紹介するのは、“三味線の調べと語りかけるような唄に魅せられた瞽女唄プレーヤー”須藤鈴子さんです!

 


 

 

雪国越後の大衆芸能。瞽女(ごぜ)唄を多くの人に知ってほしい!/須藤鈴子さん

 

瞽女(ごぜ)とは、三味線を弾きながら唄をうたい、巡業をする盲目の女芸人です。中でも長岡瞽女は全国的にも知られるほど活動が盛んでしたが、第二次大戦後に急速に衰退。昭和50年代初頭にその姿は絶えてしまいました。須藤鈴子さんは、その文化を継承する団体「瞽女唄ネットワーク」に属する「越後瞽女唄・葛の葉会」の演者として活動しています。
幼少期のピアノ教室から始まり、短期大学ではピアノ・声楽を学び、卒業後も音楽教室の講師をするなど、音楽と関わり続けてきた須藤さん。日本の伝統音楽にも興味を持ち始めた頃、新聞に瞽女唄教室の広告が出ているのを見つけ、入会しました。その頃、瞽女文化は既に衰退しており、須藤さん自身も幼少期に街なかでその姿を目にした記憶がかすかに残っているだけでした。
「瞽女唄を始めて20年余になりましたが、それまで学んでいた発声方法と違うなど、習得には長い間苦労しました」。公演を重ねるにつれ、次第に瞽女唄の魅力を後世に伝えたいという気持ちが芽生えるようになったそうです。
昨秋には瞽女の記憶が残る山古志で、当時の様子を再現したイベントを開催。一般住宅の座敷を会場にした演奏会や玄関先での門付(かどづ)けなどは、地域住民や写真愛好家を中心に多くの反響を得ることができました。


▲山古志での演奏会の様子。瞽女が訪れた当時の事を懐かしむ参加者も多かった。


個人的な活動では、地域の野外音楽祭に出演。それをきっかけに「越後瞽女唄。才蔵’s(さいぞうず)」を結成。子、孫世代のメンバーとともに瞽女唄を知らない層ともつながるようになりました。
「昔から気になる事柄にはまず飛び込んでみる性格。音楽的な興味から入った瞽女の世界ですが、今では瞽女を長岡の財産と感じ、後世に遺すべき文化としてこれからも関わっていきたいと思います」。

 


“三味線の調べと語りかけるような唄に魅せられた瞽女唄プレーヤー”須藤鈴子さんは、らこって2020年1月号でご紹介しています。